本の目次9

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『最後の一人』目次と冒頭

「しょっぱい卵」(白江翠)

 徒競走は四位だった。中途半端すぎて、午後からやる気が出ない。お昼休みです、と放送委員がくり返し、三年一組の同級生たちは「おなかすいたー!」と言いながら散るように応援席の保護者を探しに行った。私は気が重かった。あの四位を見られたのにいっしょにお弁当だなんて嫌だ、はずかしい。
「あ! 真夏、こっちだよー」
 おねえちゃんが手を振っていた。高校生のおねえちゃんがいると言うと、斉藤さんみたいにオシャレで気の強い人は「いいなー」とあこがれるみたいだ。でもべつに、うちのおねえちゃんはカッコイイ感じじゃないな、と思う。勉強は難しそうだけど、オシャレではないし、漫画に出てくる女子高生とはだいぶ違う。

「最初の一人」(篠洲ルスル)

 暗く広い部屋の四囲には嵌め殺しの窓が幾つもある、硝子の向うは潮水で満たされた人造海底、色鮮やかなものから隠蔽的擬態のために褐色をしたものまで、幾種類もの魚類、甲殻類、軟体動物そのほかが揺蕩う。人びとはそれらを眺め感嘆する、きれいネ、と。
 幼い時分、多香枝は水族館が好きだった。珊瑚の隙間をくぐる村雨紋柄を、岩礁を伏目がちに泳ぐ鷹之羽鯛を、或いは沖合を泰然と遊泳する大目白鮫を、時の許す限り見ていたかった。水族館に行く日は早起きして、午前中に入館する。一つ一つの水槽の中を、じっくり観察する。海獣のショウがあるよと親が勧めても、あまり関心を示さない。多香枝が見つめるのは、魚や無脊椎動物だ。館内の食堂で昼食をとり、午後も水槽から水槽へと回る。多香枝があまりにも熱心だから、親は閉館時間までいてもよいと言う。多香枝自身もそのつもりでいるのだが、午後三時ごろ、それはやって来るのだ。水族館の客はすっかり入れ替って、初めから残っているのは自分たちだけ、そんな想念が多香枝の心を俄に蓋う。開館から閉館までいても構わない、すぐ帰っても料金は同じだ、それならばなるべく長い時間ここで過したほうが得だ。多香枝はそうと判っているし、魚たちをずっと見ていたいのに、息が苦しくなる。

「小さな器」(灯子)

 与理子は泳ぐように走った。春の空気をなめらかにかき分けて、すいすいと進むのだ。二千メートルの持久走。二、三人で固まって、無理のないペースでのんびり走る子が多いなか、与理子はまるでそこだけ水の流れが速いみたいに、ごく自然に疾走した。
「真衣ちゃんばててるの」
「うん、ごめん、先に行って」
 そんな会話を交わして一人で後に残り、私は与理子の走る姿を眺めていた。
 のびやかなストライド。体操服の白いポロシャツが日差しに輝き、神々しかったのを覚えている。
 たぶん私は、与理子に恋をしていたのだ。

「最後のふたり」(芳野笙子)

 磐城さんが生きているのを確かめることが、最近の澤の日課で、生きるすべてだった。
 磐城さんは、歩いて二〇分先の古い農家にすんでいる。二〇分の間に、民家は二軒あるがどちらも空き家で、野放図に生えた草や蔦や木やそんなものに覆われて、家の姿も判別し難い。田畑は耕す人がいないので、不規則な草花に埋められて境界を失い、ただ圧倒的な緑だけがある。この集落には、もう磐城さんと澤の二人しかおらず、植物や動物の方が多数派なのだった。
 二人のうち、どちらかが死ねば、一人になる。

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